お札の顔に選ばれるほどの偉業を成し遂げた野口英世。しかし裏の顔も持っていた?
こんにちはMASAです。
みなさん野口英世って、知ってますか?
そう千円札のあの人です!
先日旅行で、福島県猪苗代湖にある、野口英世記念館に行ってきました。
野口英世って、顔は知ってるけど、どんな凄いことしたひとなの?
皆さん知ってましたか?
私は、小学校で習ったけど、すっかり忘れてしまってました。
私のように忘れてしまった方や、もう少し詳しく知りたい方に読んで頂ければと思います。
この記事を読めば、いかに野口英世が素晴らしかったかがわかります。
それとは反対に、人間味ある堕落した様子もわかります。
そして記事を読み終える頃
千円札の顔に選ばれた理由に、納得できるか首をかしげるかは、あなた次第です。
1、志を得ざれば、再び、この地を踏まず
2、天才なんてあるもんか!だれよりも三倍、四倍、五倍勉強する者・・・それが天才だ!!
3、忍耐は苦い、しかしその実は甘い。
4、私はこのよに、何事かをなさんがために、生まれてきたのだ。
↑ 野口さんが、人生の節目の、大事なときに残した言葉です。
どういう場面で、でてきた言葉なのか順にたどってみていくと、野口さんの歩みを理解しやすいです。
医者になるまでの道のり
小さいころ野口さんはいろりで、左手に大やけどを負ってしまったの。
貧乏だったし、近くに病院もなかったから、そのまま手の指がくっついて、動かなくなってしまったんだ。
小学校で習ったの覚えてるなあ。
小さかったから、手がくっついてしまった事が怖かった記憶があるよ・・・
母の言葉が励みになる
この時野口さんのお母さんは、自分に責任を感じて、こんな事を言いました。
手が動かないなら、農家はやらなくていい。
勉強して偉くなれ。
そうして、野口さんは学校に通いました。
でもね、手が不自由だから
学校でいじめられたんだ・・・
それでも、野口さんは、頑張って勉強したんだ。
お母さんにも、たくさん励まされたからね。
恩師との出会い
中学生の頃、野口さんは自分の左手の事で、悩んでいました。
あるとき、刃物で自分の指を切ろうとしたことも・・・
そんな英世を見かねて、そのときの先生や友達が、寄付金を集めて左手の手術をしたんだよ。
野口さんの家は貧しかったし、手術なんてできなかったからね。
それで、野口さんは医者を目指すようになったわけか。
うん、その時の先生に、医者になれ!
そう肩をおされたんだ。
この後も猛勉強をして、ついに東京へいく事をきめます。
この時の決意の言葉が・・・
志を得ざれば、再び、この地を踏まず
夢をかなえるまでは、故郷へは帰ってこない。
そんな強い意志で、東京へ向かったのです。
実はこんな逸話も・・・
野口さんには、お姉さんがいました。しかし野口さんは、家を継ぎたくなくて、姉に押しつける形で家を出たのだとか。
こんな貧乏な家を継ぐくらいなら死んでやる!
そんな事言ったらしいです・・・
貧乏でしかもいじめられた過去から、このような事を言ってしまったのですかね・・・
邪推すると、志の名言も、こんな貧乏な家に帰ってきたくない。
ハッキリそう言ってしまうよりは、うわべだけでも格好良く決めたい。
本心はそういう思いで、言ったのでは?
そんな風にもとれてしまいます。
私は性根が曲がっていますので(笑)
東京での暮らし
東京へ来た野口さん、猛勉強をして普通は10年くらいかかる試験を・・・
なんと!1年で合格してしまったのです!
本当に頭もよく、記憶力もバツグンでした。
みんなが野口さんの事を、褒めちぎりました。
マジ野口ってすげえよ お前天才かよ
みんなが口をそろえて言いました。
そこで野口さんは、こう返したのです。
天才なんてあるもんか!
だれよりも三倍、四倍、五倍勉強する者・・・それが天才だ!!
ほんと格好いいです。
自分の才能を自慢することなく、ひたむきに勉強する姿は素晴らしいの一言です。
表向きは勤勉な好青年に見えます。
しかし、裏の顔もありました。
一言でいうと金使いがむちゃくちゃ荒く、とんでもない借金野郎だったというのです。
上京するとき餞別でもらったお金は、遊びで一気に全部使ってしまったのです。
お金の使い道は、女と酒というから笑えません。
しかも金がなくなったら、今度は東京で別な先生から、毎月お金をもらうという、ヒモのような生活をしていたのです。
とんでもない堕落野郎だったのか・・・
そう思うかどうかは、人それぞれです。
この才能がなければ、お金の支援はしてもらえなかったでしょう。
また、育った環境が悪すぎたのも、こういう一面を生んだのかもしれません。
野口英世 アメリカへいく
アメリカへ渡った野口さん。
ここで大きな研究の成果を残します。
へびの毒の研究が評価され、多額の奨学金をもらえたんだ!
そして、梅毒の研究をして、ワクチンをつくり世界的に有名になったんだ。
みんな、梅毒で苦しんでいて、治らない病気と思われていたのです。
しかし野口英世の研究により、多くの人の命が救われたのですね。
この頃から、もう世界の野口って言われてたんだね。
アメリカ人の奥さんと結婚して、順風満帆でした。
ここでも、問題児!?
研究所の中では、野口に金を貸すな。というのがみんなの口癖だったとか。
金にだらしなく酒癖が悪かったのは、アメリカでも有名なのです。
日本へ帰国する
丁度そのころ、野口さんのお母さんから手紙が届くのです。
帰ってきてくだされ! 帰ってきてくだされ!
あまり字の書けなかったお母さん。
拙い字で一生懸命手紙を書いたのです。
みんなに会いに、一度里帰りしよう!
そうして野口英世は、故郷猪苗代に凱旋帰国したのです。
みんな最初は野口さんのことを、
医者になんてなれっこない!
そう言っていましたが、こうして立派になって帰ってきた野口さんを、みんなであたたかく迎えたそうです。
村人800人で出迎えたというから、一気に人気者になったというのがわかります。
忍耐は苦い、しかしその実は甘い
猪苗代町長にあてた言葉です。
梅毒と毒蛇の研究の大変さと、成果を経験したからこその言葉ですね。
日本で2ヶ月間親孝行し、恩師にあいさつまわりと、忙しいくも充実した日々を過ごしたようです。
黄熱病の研究へと突き進む
黄熱病の研究をするべく、南米へと向かう野口さん。
南米では黄熱病で苦しんでいる人が、たくさんいましたからね。
ここで研究したワクチンが成功し、南米の人は救われました。
しかし、遠くアフリカの黄熱病は、なおらなかったのです。
なぜ?
同じ黄熱病なのに・・・
現代では有名ですが、この時のワクチンは間違いだったのです。
南米の人の病気は、ワイル病というものでした。
黄熱病とワイル病は症状が、とても似ていて見分けるのは困難でした。
しかしそんな事は、当時はわかりません。
まわりのみんなからは・・・
野口英世のワクチンは、ダメなワクチンだ!
インチキ研究者だ!
かなりバッシングを受けたようです。
しかし最近では、こんなことが原因でミスったのでは?と言われています。
野口さん自身、南米の病気は黄熱病ではないのでは?と薄々感じていたこと。
ワイル病の事も知っていたが確証がなかったこと。
研究施設が、野口さんの研究成果を、確証が得られないまま公表したこと。
研究施設の見切りはっしゃが大きな原因で、それが野口さんのプレッシャーとなり、発表をあせってしまったのではないか?ということです。
当然のごとく、研究所には不利になるような記録は残しませんので、事実は闇の中です。
しかしその後
危険を承知で、野口さんはアフリカへ行きます。
私はこの世に、なにごとかをなさんがために、生まれてきたのだ
生きるか死ぬか、命がけの研究になることは、野口さんも十分承知の上での決意だった事からでた言葉ですね。
アフリカで一生懸命研究したのですが、成果は得られず。
自分も黄熱病にかかり、52歳でこの世を去ったのです。
野口さんは、黄熱病は細菌が原因だと思っていました。
しかし、本当はウィルスが原因だったのです。
細菌とウィルスの大きさはまったく違います。
細菌の1/1000しかないほど小さいのが、ウィルスなのです。
野口さんの死後何年もたって開発された、電子顕微鏡じゃないと見れない大きさです。
いくら頑張っても、野口さんの普通の顕微鏡では、見つけられないのは当然でした。
おわりに
いかがでしたか?
野口英世の生涯を早足ですが、紹介いたしました。
その生涯を素晴らしいととるか、いやいや、素晴らしいけど普通の人じゃね?
ダメなとこも一杯あるし。
人それぞれ受け取り方は違います。
私は、やっぱり野口英世は素晴らしいと思います。
実際多くの人を救ったのは事実ですし、功績も大きなものです。
まあ、金にだらしないのは、確かにちょっといただけませんが・・・
気になった方
野口英世記念館に行って見てください!
年中無休
大人600円
子供300円
きっと素晴らしい思い出になりますよ。
最後まで読んで頂き、ありがとうございました。