さすらいの車上生活者のブログ

キャンピングカーで旅をしながら、日々の出来事や思ったことを記事にしています。

二本松歴史資料館で二本松少年隊の全てを見てきた

二本松少年隊の戦いとその記録

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こんにちはMASAです。

 

 

 

先日二本松歴史資料館で、二本松少年隊の特別展を開催していましたので、見学してきました。

そこで知った、二本松少年隊の戦いと悲劇の記録を、記事にしましたのでご覧下さい。

 

1868年5月1日 白河城が新政府軍に落とされ、その後も怒濤の勢いで東北の地を蹂躙していました。

棚倉城、磐城平城も相次いで陥落。

とうとう二本松城の近くまで、敵兵は迫っていたのです。

 

その頃二本松城は、主力部隊を白河奪還へ向けて出していたため、城内は手薄でした。

しかも、隣の三春藩に加勢しに行ったところ、すでに三春藩は新政府軍に降伏し敵として向かってきたから大変です。

 

これ以降、二本松と三春は未だに因縁があるのだとか・・・
結婚なんてしようものなら、険悪ムードに。

結婚の時に、出身地を気にしなくてはいけないなんて・・・
やるせないね・・・

 

八方塞がりの二本松藩の運命は?

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二本松の藩兵力は、応援兵もあわせて1000あまり。

対する新政府軍は、7000。

到底勝ち目はありません。

 

そこで兵を補うために、即興で集められた少年達が二本松少年隊なのです。 

 

二本松少年隊とは?

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もともと白虎隊のように、正式な軍ではなかったんだ。

そうだったんだ!
だから世間では、白虎隊ほど知られてなかったのかな?

そうだね。
でも八重の桜などで取りあげられてからは、ずいぶん有名になったんだよ。

 

POINT

二本松藩には入れ年制度というものがあって、兵役が20歳だとすると2歳までは、サバをよんで18歳で兵役とすることができたのです。

兵がいなかったのでどんどん年齢がさがり、遂には15歳。サバをよんで13歳までの兵役が下りたのです。

 

普通だったら、怖くて入隊させられたのかな?
なんて思うかもれないよね。

うん、怖いよ。
だって中学校1年生だよ?

でもね、みんな早く戦いたいと言って、
藩に入隊をせかして志願したくらいだったんだ。

わー、すごい勇敢だったんだね。

うん!今では考えられないけど、武士の子供っていう誇りがあったからね。
子供とはいえ、信念で戦ってたんじゃないかな。

この頃は即興でできた隊のため、正式名称はありませんでした。

戊辰戦争50回忌で、正式に二本松少年隊と名付けられたのです。 

 

少年達の出で立ちは、急な出陣となったため少年達にあわせて、父や兄の着物を徹夜で母親が縫い合わせていたといいます。

どこの家庭でも、少年の出陣など想定していなかったので、その場での間に合わせがほとんどだったのでしょう。

 

出陣の際のドラマ

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上崎鉄蔵 16歳

 

一時は大喜びしていたが、時がたつにつれて物思いに沈むようになり、これを見た母・スマはそのわけを問いただしたところ「恥ずかしくない刀を持って戦いたい」とのことでした。

上崎家には実戦用の刀がなかったのです。

鉄蔵の気持ちをくみ取った母は、急いで実家に駆けつけ相州ものを調達し、鉄蔵に与えました。

27日の朝出陣する鉄蔵に母は、「行ってこいよと」と声をかけると、「行ってこいよではないでしょう。今日は行け、で良いのです」と答えてにっこり微笑み元気よく駆けていったといいます。

 

 

岡山 篤次郎 13歳

 

母に頼んで着物をはじめ手ぬぐいにいたるまで、「二本松藩士 岡山篤次郎 13歳」と書いてもらいました。

母が自分の屍を探しやすいように、字が下手だと敵に笑われるとの理由からだと言われています。

 

 

成田 才次郎 14歳

父から敵を見たら斬ってはならぬ、突け。

ただ一筋に突け、わかったか。わかったら行け、突くのだぞ。

そう諭され出陣しました。

この突きは初代藩主、丹波光重公以来の二本松伝統の剣法です。

 

 

一部ですが、このように武士の子として、恥ずかしくないように出陣したのですね。

 

 

大壇口での戦い 

 

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午前8時頃二本松隊に対して、新政府軍の砲撃が開始。

更に歩兵は散開して大壇口に向かって戦闘を開始、8時半頃。

 

隊列を組んだまま少年隊の眼下に現れますが、隊長の命令はまだでません。

少年達は撃ちたくて気がはやります。

もっと敵を引きつけてから撃て。

 

息の詰まるような時が流れ、撃て!と命令が下ります。

3発の撃った弾は全て敵の頭上で爆発。

敵は民家に逃げ込みますが、少年隊も砲撃。民家に逃げ込んだ敵をみごと倒したのです。

この砲撃で民家51軒を貫いたといいます。

 

この精度の良さには、敵軍の隊長も関心したと後に語っています。

しかし、徐々に少年隊にも犠牲者が出始めました。

 

そんな中ついに隊長も、敵の銃弾に倒れたのです。

 

この重傷では到底お城には帰れぬ。

私の首を切れと副隊長にいいます。

 

少年達は、そんなことはできないと、押し問答を始めますが、隊長が檄をとばすと

副隊長は覚悟を決め、隊長の首をきりおとします。

 

隊長の死体を素早く地中に埋め、首だけを持って退却したといいます。

この時少年一人の力では、首は持つには重く2人で持っていったといいます。

 

 

二本松城落城

 

少年隊62人中 死者14名

新政府軍の圧倒的な兵力の前に

 

1868年 7月29日 二本松城は落城しました。

 

当時少年隊として出陣した、武谷剛介がこう語っています。

 

藩のため戦争に出て戦うことは、武士の子として当然のことであって、特に語るべき事ではない。

恐ろしいとは思わなかった。

出陣の前夜などは、今の子供の修学旅行の前夜のようなはしゃぎようだった。

とてもじゃないけど、今の常識ではかんがえられないよね。

それだけ強い信念と、誇りをもって戦っていたんだね。

 

 

おわりに

いかがでしたか?

戊辰戦争は、本当に信念の戦いだったことがよくわかります。

 

会津の白虎隊に、負けず劣らずの二本松少年隊。

その雄志、いつまでも語り継いでいってほしいものです。

 

最後まで読んで頂きありがとうございました。