さすらいの車上生活者のブログ

キャンピングカーで旅をしながら、日々の出来事や思ったことを記事にしています。

江戸から明治へその後の会津戦争と戊辰戦争の終結③

東北へと戦火は広がりついに流血の会津戦争へ

 

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こんにちはMASAです。

 

パート3に入ります。

 

 

 

 

 

 

江戸無血開城とは

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やっぱ慶喜さんには、切腹してもらわないと。

もう薩長同盟は、天皇のもと戦っているわけですから、官軍となっているのです。

新政府軍として、旧社会の仕組みを壊そうとしているのですね。

いわば革命です。

 

 

そこで、旧社会の仕組みの大本である、徳川は根絶したかったのです。

なぜかというと、簡単にいえば仕返しが怖かったからです。

 

 

そんなことしたら、江戸は戦争になって大変にな事になる。

そう思って立ち上がったのが、勝海舟さんです。

 

これくらいしてくれないとゆるさない!

最初は結構厳しい条件を突きつけたんですよね

 

しかし勝さんが、

いやいや、なんとか穏便にお互いやろうよ。
争いなんてなにも良いことないよ

 

まあ、勝さんの頼みでは仕方ないか。

 

こうして勝海舟と西郷隆盛の関係があったからこそ、江戸は大事には至らなく血はながれなかったのです。

 

 

勝てば官軍負ければ賊軍

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江戸が無血開城して、みんな旧幕府の藩の人たちは、あーこりゃだめだ従おう。

みんな新政府の言うことを聞くようになりました。

 

しかし新政府は、会津と庄内の2藩だけは、許せないようでした。

会津は、京都守護職のとき長州と、何度かやりあっていました。

禁門の変などは正にそうです。

 

庄内藩は会津と一緒で、むこうは江戸の警備をしていました。

この時、薩摩と何度かやりあったのです。

 

 

そのことを長州、薩摩はずっと根にもっていたのですから始末が悪い。

 

江戸もなくなり、これから自分たちのやりたいようにやれるのに、どうしても会津と庄内は目障りなようでした。

 

幕府側で守護隊をしていたころは、朝廷も味方でしたが、鳥羽伏見で敗退し江戸も終わった今・・・

今度は朝廷の敵として、扱われるようになっていたのです。

 

 

 

奥羽越列藩同盟

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この時政府は、東北の各大名達に

俺らの代わりに会津と庄内やっつけて!

こうして、仙台藩や米沢藩は会津と庄内にむかいます。

いやいや、政府とも君たちとも戦いたくないよ

会津にそう言われたら、東北の大名も戦いたくありません。

むしろ、容保さんたちは新政府にあやまります。

ごめんなさい、ゆるしてください。

 

会津藩を助けてやってくださいと、さらに仙台藩と米沢藩もあやまってくれます。

 

まずは城を開けろ!江戸と同じく開城だ。

待ってください、開城はできません。

じゃあ、ダメだな。

新政府に謝っても、許してもらえなくなってしまったのです。 

そこで、会津と庄内は同盟を組むことにしたのです。

早く会津と庄内つぶして!!
じゃないとお前ら東北全部やっちゃうよ!? 

こんな感じで、さらに他の東北各大名に対しても、新政府は敵対してきそうな雰囲気だったのです。

POINT

列藩同盟のきっかけは・・・

世良という新政府側の人物が、仙台藩にきていたのですが、横柄な態度やひどい言動がつづいた事と、東北は全部敵と書かれた手紙を発見してしまった為、これはもう戦争しかないと我慢の限界だった仙台藩は世良を殺してしまったのです。

 

殺しちゃったら戦争は避けられません。

 

どうせ新政府は、戦争やる気だし、俺ら東北も同盟組んでやっちまうか!?

 

そんなこんなで 1868年 5月3日 計25藩の奥羽列藩同盟成立 

5月6日越後が加わり 計31藩の大軍団 奥羽越列藩同盟が成立 

 

POINT

1、実はこの時米沢藩は、同盟にはあまり乗り気ではなかったとの話も。もともと外様大名でしたし、新政府側につきたかったという説も・・・

2、仙台藩も同盟とはいいつつ、新政府にやられたくない。またあわよくば新政府を潰し仙台が東北の中心になってやる! そんな事思ってたとかなんとか・・・

 

 

白河口の戦い

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新政府軍は快進撃を続け、ついに東北の入り口白河まできていました。

 

東北の玄関口である白河。

ここを奪われてしまったが故に戦局はきびしくなっていくのです。

 

列藩同盟3000 新政府軍700

 

同盟軍の圧勝に見えたが・・・

 

結果は惨敗。

一番の敗因は、軍の指揮をとっていた頼母。

実戦経験がほとんど無く、戦場では翻弄されっぱなしだったからです。

お城そのものも、伊達政宗が白河城を見たときに、こんなのは城ではない!

そう言っていた事から、防御力はあまりなかったのかもしれません。

 

同盟軍死者700 新政府軍20 

新政府軍の圧勝でした。

 

5月1日 白河城占領される

 

その後およそ100日間にわたって、奪還作戦が行われたが、全て失敗に終わったのです。

 

 

猛攻の新政府軍次々と陥落する東北各藩

 

6月24日 棚倉城落城

 

7月13日 磐城平城落城

 

7月26日 三春無血開城 

三春藩は寝返ったといわれていますが、本来は新政府軍につきたかったのです。

でも仙台藩とかが怖くて、従っていたのだとか・・・

 

7月29日 二本松落城

二本松も凄惨を極めていました。白虎隊ばかりが目立ちますが、二本松も少年隊がいました。

当初18歳前後の少年が主流でしたが、兵不足により最年少は13歳で戦いに参加したのです。

武士の子としては、当然こう思って戦いに行ったそうです。

怖くはない、むしろ早く戦いたくてしょうがない!
修学旅行に行くみたいだ!

少年とはいえ、勇敢に戦ったのですね。

少年隊 62名 戦死者14名

 

8月4日 相馬降伏

 

 秋田藩、弘前藩の同盟離脱(裏切り?)により、戦局はいよいよ大詰めへ。

 

 

会津若松での戦い

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8月20日

会津への攻撃が始まります。

 

鳥羽伏見の戦いのあと、会津もフランス式の軍体制にかえ、新政府を迎え撃とうとしました。

しかし、圧倒的な力の差で、籠城へと追い込まれてしまいます。

 

城内では凄惨を極めました。

大砲は一日で2500発も打ち込まれたといいます。

打ち込まれた砲弾を水で消化したり、吹き飛ばされたりと辺り一面、血と肉片で埋まったのです。

 

食べ物もなく、みんな疲弊しきってしまい、米沢藩、仙台藩の降伏のしらせを聞いて、ついに9月22日会津藩降伏。

 

9月8日 明治に変わる

 

1869年 5月18日 五稜郭陥落し戊辰戦争終結。

 

 

 

 

現代で明らかになる会津×長州の食い違い(閲覧注意)

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これより先は閲覧注意。(特に会津方面の方)

気分を害される方もいらっしゃるかもしれません。

個人的な意見も、言いたい放題です。

どうぞご了承ください。

 

 

 

 

 

 

私は福島県出身です。

子供の頃白虎隊はかわいそうだな、あの頃会津の人や鶴ヶ城は大変だったんだな。

学校の授業で習った時はそう思っていましたし、会津の人は悪くないのに皆ひどいことするなぁ。

こんな風に、味方したい気持ちが少なからずありました。

会津に住んでいる人はなおのこと、その気持ちは強いと思います。

 

 

そんな私が、戊辰戦争のことを調べるにつれて、考えが変わりつつありました。 

それは教科書程度にしか知らなかった私が、これから書いていく事を知ったからなのです。

 

 

 

 

歴史の教科書が必ずしも、全てではないのでは?

 

 

美談ばかりに目がいってしまいがちですが、実際はどうだったのか?ということを書いていきます。

 

 

1、京都守護職に容保さんが就いたとき、そうとう領民は大変だった。

 

重い重税で、米なんてほとんど年貢でとられてしまい、本当に食べ物もなくて苦しかったといいます。

 

容保さんが、京都に行くときも領民のみんなは、容保さんが前を通っても挨拶もしなかったんだとか。それほど、藩主のやり方にムカついてたんでしょうね。

現代だったら間違いなく領民をとるでしょう。そんな昔の人の事を聞いても、現在を生きる人にはなんの関係もありませんからね。

領民については、新政府軍が攻めてきても、むしろ会津をこらしめてくれくらいの勢いだったとか・・それくらい生活が厳しかったのです。

 

 

2、大政奉還後、京都守護職が解散されても意地をはって京都に居座り続けた。

 

あの時速やかに撤収していれば、薩長の怒りも大きくはならなかったのでは?とも言われています。

どうしても忠義をつくしたい気持ちと、強情なところがあったためなのかもしれません。

正直私は、この強情なところがあったが為に、悲劇は続いたのだと思います。

素直になって仕方ないと思っていれば少しは違ったのかも・・・

 

 

 

3、鳥羽伏見の戦いを止められていたのに我慢できなかったこと。

 

気持ちはわかりますが、忠義を尽くすはずの徳川慶喜さんが、止めていたのに戦争してしまったのは、マズイと思います。

慶喜さんも保身が大事だったのかもしれません。

そうだとしても、言うとおりにして戦争はしない選択をするべきでした。

 

 

4、鳥羽伏見での薩長の天皇の旗は偽造?

 

薩長にしても錦の御旗を偽造したとか何とかという話があります。

あの旗を出したことによって、旧幕府は戦意喪失したのですから、戦を分けた問題ですね。

ただ、朝廷から旗の生産の許可は下りていたそうですから、量産型がそう思われたみたいです。旗は全部で12作られたそう。

 

 

5、鳥羽伏見の戦い後も非を認めなかった事。

 

戦いの後も、断固として正当防衛だったと主張し、怒りを更に買ったのではないでしょうか?

こういうところは、私は首をかしげてしまいます。

一家の頭領だったら、みんなを守るために頭を下げるのも一つの選択なのでは?と思ってしまいました。

それが、忠義といわれれば仕方ありませんが・・・

 

 

6、開城に対しても、反対した。

 

江戸が無血開城でなんとか戦は免れたのですから、素直に応じていれば少しは違ったのかもしれません。

実際すぐ開城したところでは、被害は最小限に抑えられたのです。

 

 

7、少年や弱者にまで戦争を強いる風潮

 

この辺は、少し洗脳めいたものを感じました。

以前テレビで放映していた番組で、会津っこ宣言なるものがあり、小学校の授業で唱和するのです。こういった風潮が残っているということは、あの当時も第二次大戦の時のような、天皇万歳と一緒でみんな死んでいったのかなぁと思うのです。

白虎隊や二本松少年隊の悲劇は、こういった背景があったからなのでは・・・

 

正直マインドコントロールに、近いような気がしてしまうのです・・・

 

ほんと、会津の人ごめんねぇ

 

 

8、列藩同盟も圧力でできたもの

 

列藩同盟も仙台、米沢の圧力で、仕方なく加入した藩がほとんどだといいます。

開城したり、降伏したりした藩を、裏切りものよばわりしますが、自分の藩を思ったら当然だと思います。

むしろ圧力という恐怖で一緒にいたのですから、やっと離脱できたと思っていたのではないかと私は思いました。

 

 

9、遺体埋葬問題

 

 

遺体の埋葬については、当初埋葬禁止ということで、ずっと野ざらし放置状態が続いてきたと思われていました。

しかし最近になって、新政府より遺体埋葬の許可は下りていたことが分かったのです。

ただ死者3000名に対し、埋葬者500名と数が圧倒的にあわないこと。

あの当時、戦後も新政府の嫌がらせというか、そういうものが少なからずあったこと。

この辺が、埋葬した事実がわかっても、わだかまりとして残っている原因なのではないでしょうか。

 

 

10、糞尿問題 

 

 

テレビで以前、会津戦争の時糞尿のしまつに困り、衛生的にも管理できないので、開城した。その放送に抗議をしてテレビ局の人が謝罪した。

そういった記事を見ました。

 

私が思うに、それも少なからず開城した、一つの理由としてあると思います。

なぜなら一ヶ月という長い期間です。

溜めきれずにそこら中にあったことでしょう。記事には踏んづけながら歩いていたとも書いてありました。

匂いも酷いでしょうし伝染病など考えるのであれば、開城もやむなしなのではと考えていました。

 

 

 

 

おわりに

 

長々とすみませんでした。

知識不足と文才の無さで、ご迷惑をおかけしました。

 

最初は会津ひいきの私でしたが、調べて行くうちにだんだん知らないことが分かってきて、記事に書きたくなってしまって・・・

不快に思った方もいらっしゃると思います。

 

 

今回私が記事にした理由は、どっちが良い悪い、正しい間違っているとかではありません。

戊辰戦争に関して小学校、中学校程度の知識しかない私でしたが、鶴ヶ城を見て昔を懐かしみ、調べて行くと知らなかったことが次々とわかりました。

 

ある一つの側面から物事を見るのではなく、様々な角度から見ることによって視野も広がりますし、本質も見えてくるのだなと思ったからなのです。

 

 

今回この時代を調べて、より一層歴史に興味もわきました。

 

また歴史の記事を、書いて行きたいと思っておりますので、どうぞよろしくお願いします。

 

 

 最後までありがとうございました。