江戸幕府ができた頃って幕府以外はどんなだったの?
こんにちはMASAです。
今回は朝廷の簡単なお話と、幕末に出てくる主だった藩の、関ヶ原の戦い直後の現状を簡単に説明しちゃいます。
江戸幕府と朝廷ってなにがちがうの?
朝廷とは天皇を頂天とし、その下にいる公家(貴族)が政治を行う機関。
幕府とは征夷大将軍を頂天とし、その下にいる老中(武士)が政治を行う機関。
どっちも同じ政治を行うところ
2つも政府機関があったら、混乱するんじゃないの?
ここはちょっと複雑な関係なんだよね・・・
幕府ができる以前・・・
室町幕府や鎌倉幕府以前は、朝廷の力が強かったのです。
それまでは朝廷が政治をおこなっていたの
でも幕府ができてからは、武士の力が強くなっていきます。
そして、朝廷は存在しているものの、実際に政治を行うのは幕府側に変わっていったのです。
武士の時代ってかんじね!
うん
それに朝廷が政治を行っていた頃も、実際には天皇じゃなく公家が仕切っていることも多かったんだ。
じゃあ、江戸幕府になっても実際に政治をやってたのは、幕府側だけだったのね。
しかし、幕府の将軍を征夷大将軍に任命するのは、天皇なのです。
ここがちょっと複雑で、幕府も武士もみーーんな、天皇の家来なのです。
でも、実際にいろいろな決めごとをするのは、幕府側という事です。
この頃の朝廷はいってしまえば、お飾りみたいなものだったんだよ。
幕末になると、この関係がガラッと変わるんだ!
幕末にでてくる藩ってどんなだったの?
薩摩藩
今の鹿児島県あたりに位置する藩です。
関ヶ原の戦いでは、西軍だったので外様大名です。
外様というと、戦後大きなペナルティ(領地を減らされる)が、かせられますが、なんとこの薩摩藩領地は、そのままの状態で良いとされたのです。
どうして?
この薩摩藩。
当時は島津家っていうところがトップだったんだけど・・・
これがものすごく強い!
どれくらいかっていうと、敵軍が自分の軍の、何倍もの兵力差でも勝ってしまうくらい強かったんだ。
その強さは九州統一も夢ではないくらいだったんだよ
ふーん、じゃあ家康は怖かったんだね。
実際家康は、島津家を滅ぼそうとしていました。
しかし、討伐中にもし苦戦を強いられたら、他の外様大名がいつ反旗を翻してくるか分からない。
だから手出しできなかったし、それくらい薩摩は強かったの。
交渉も上手だったのです。
俺たち薩摩は、関ヶ原で東軍に応援にいったのに・・・聞いてない!
って追い出されたから、仕方なく西軍についたんだ!
こんな感じで主張したんだよね。
遂には家康も・・・
しょーがねーか・・・
と、おれたわけです。
薩摩は、相当の強者揃いだったんです!
ちなみに幕末でも、その強さは健在です。
長州藩
現在の山口県あたりが、長州藩です。
関ヶ原の戦いの時、長州藩を治める毛利家は、西軍の総大将の位置づけでした。
西軍の大将って石田三成じゃないんだね!
うん!
毛利輝元っていう人。
この人のお父さんは三本の矢って聞いたことあるでしょ?
その毛利元就って人だよ。
毛利家は西軍の大将だっただけに、関ヶ原以後、領地は1/4に減らされてしまいます。
領地は減らされたけど、海に囲まれていて貿易とかしやすかったんだ!
ころんでも、ただじゃあ起きないわね!
ただね、やっぱり長州は土地を減らされた恨みを、幕府にずーっと持ってたんじゃないかって言われてるよね。
まーね、1/4じゃあね・・・
自分の部屋が6畳だったら、1.5畳にへるんでしょ?
それじゃあベッドも置けないし、減りすぎよ!
長州が根に持つっていうのも、少しはわかるわ!
この頃幕府は、圧倒的な力をもっていたので、不満をもらそうものなら
ぶっ潰す!
って感じだったので、みんなおとなしくしていました。
これも幕末でガラッと変わり、この時の恨みを晴らそうとしてるんじゃないかってくらい、幕府を追い詰めます!
執念だね・・・
会津藩
会津藩は現在の福島県に位置するよ。
会津は徳川2代目将軍の時に、ちょっとした運命の分かれ道があったの。
どんなこと?
将軍の腹違いの弟がいたんだけど、その弟がものすごく将軍の事を慕ってたんだよ。
それで将軍は弟を気に入って、会津藩の藩主に抜擢したの!
おーー! 兄弟愛!
この時の会津藩に抜擢された弟こそ、保科正之なんだ。
その人と会津藩の、何が運命の分かれ道なの?
2代目将軍(お義兄さんだね)を、保科さんはめっちゃ気に入ってたでしょ?
うん
お義兄さん好きすぎて、徳川家絶対服従!!
どの藩よりも絶対一番服従!!みたいな家訓を決めちゃったわけ。
それが幕末の会津藩を、苦しめる事になるんだ・・・
たいへんそう・・・
今回はここまで。
次回いよいよペリー来航編