さすらいの車上生活者のブログ

キャンピングカーで旅をしながら、日々の出来事や思ったことを記事にしています。

雨ニモマケズの作者、宮沢賢治に迫る!!

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こんにちはMASAです。

 

 

 

みなさん

 

銀河鉄道の夜、注文の多い料理店、風の又三郎etc...

 

学校の授業などで一度くらいは、聞いたり読んだりしたことが、あるのではないでしょうか?

 

 作者は・・・

 

 

いわて=イーハトーヴが生んだ、個人的最強の作家・・・

 

 

 

 

そう!!宮沢賢治です。

 

 

 

 

 

 

 

なんでいきなり賢治なん?

あんた、そんなに普段から本読まんやん!?

 

 

 

そうなんです、私アホなんで、あんまり本は読みません。

漫画は大好きですが・・・(笑)

 

 

 

 

 

じゃあ、なんでよ?

って事なんですが・・・

 

 

 

 

雨にもまけず、風にもまけずって有名な誌がありますよね。

 

初めて目にしたときから、ずっと好きな誌だったのです。

 

 

 

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↑ 写真は自分のキャンピングカーの中なのですが、賢治の誌ってタオルになってよく道の駅に売られているのです。(岩手では)

 

それを車内に飾っちゃうくらい好きなんです(笑)

 

 

 

 

 

 

まあ、汚い車内はこれくらいで・・・

 

 

 

とにかく!この誌ですが!!

 

 

 

 

この雨にもまけずっていう誌は、最後の1行が、そういう人に私はなりたいっていう終わり方なんです。

 

賢治の願望というか、目標というか・・・

まぁ、そんな感じです。

 

 

 

私はそう受け取りました。

 

 

 

で、願望の内容が、よーーーく読むと本当にすごい!

 

私なりに個人的に、簡単に解釈します。

全文はWIKIでみてください。

 

 

 

 

見返りを求めないやさしさができる人。

 

そんな解釈をしました。

 

 

わかりやすく言ってしまえば、出来杉くんよりできんじゃね!?

完璧超人そのものやん!

 

 

 

まぁ、そんな人です。

 

 

 

 

賢治さんは、こういう人を、目標にしてたんかなぁって思うんです。

 

 

 

賢治さん、あんたそれ・・・

 

 

 

漢すぎるだろォ!、とずっと思っていたのです。

 

目標高すぎるし、なかなか出来ないよね・・・

 

 

しかし簡単にできないことを、目標にするという事自体が、単純な私にはかっこよく思えたのです。

 

 

 

年齢を重ねた今でも、その気持ちは変わりません。

 

 

そんな宮沢賢治が、どんな人物だったのかを記事にしてみたくて、今回書いてみます。

 

間違っている事もあるかもしれません。

そこはどうぞお許しください。

 

 

 

 

ではでは、題して・・・

 

 格好いいって、こういう事だろ!?宮沢賢治という漢!

 

 

 

 

漢と書いておとこと読みます。

おとこがおとこに惚れるときは、こう書くのです。

 

 

 

 

と、昔なにかの漫画でやってました(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

誌とか童謡の考察はしません。

 

 

 

 

むしろ、賢治さんの文学って、あんた何言っとんじゃ??

 

 

理解できんわい!

 

 

頭の悪い自分では、文章が難しくて、理解するのに時間がかかってしまうものが多いからです。

 

 

今回は宮沢賢治が、どういう人物だったのかという処に、スポットを当てていきたいと思います。

 

 

 

ではまず・・・

 

 

1、宮沢賢治の生い立ちって、どんななの?

 

賢治さんは、詩人、童話作家、教師、地質学者、音楽家・・・

なんでもできるすごい人。

 

でも37歳という若さで、この世を去ってしまったのです。

 

 

 

 

生まれは、岩手県花巻市です!(明治29年)

生まれた2ヶ月後、三陸大津波が沿岸を襲います。

 

 

実は賢治さんが亡くなった年にも、三陸大津波があったんです。(昭和8年)

 

 

明治の津波とともに、この世に生を受け、昭和の津波とともにこの世を去って行った。

 

この頃は日本全国で、天候不順続きで作物もあまり育たなく、食べ物に困っていました。

 

そんな厳しい、激動の時代を生き抜いていった人なのです。

 

私は、前向きな雨にもまけずの誌が、この時代につくられた事に、昨今の異常気象や災害とも因縁めいたものを感じて、しょうがありません。

 

 

 

 

 

 

ところで賢治さんて、良いとこの、おぼっちゃまくんなのです。

 

 

なにせ花巻では、けっこうな裕福な家で、財閥一家だったらしいですからね。

 

でもですね、賢治さんは、そんな自分の生まれた宮沢家を、あまり好きではなかったのです。

葛藤と言いましょうか・・・

 

 

当時って、やっぱりどこも貧しかったんですよね。

 

その中でも、何不自由なく暮らしている賢治さん家は、周りと比べて別格ってかんじで、普通の一般家庭は食べ物にもこまってしまうような・・・そんな時代です。

 

 

でも賢治さんのお父さんは、そんな苦しい一般家庭の人たちに、高い金利でお金を貸したりして、自分たちの裕福さを維持していたのです。

 

 

賢治さんは、自分の父親のそんなやり方に不満を持っていました。

でも、この家に住んでいないと食べていけない・・・

 

 

そんな葛藤が、日々あったのです。

 

 

 

そういう環境だったからなのかは、わかりませんが、ものすごく友達思いだったそうです。

 

先生に怒られている友達がいれば、かばってくれたり。

友達が怪我をしたら、急いで手当をしてあげたりと・・・

 

とにかく優しかったのです。

 

 

しかしながら

 

 

 

 

賢治さんが20歳をすぎ、ずっと大人になっても、宮沢家(父親)にたよらなければ、金銭的には生きてはいけなかったという状況は変わりませんでした。

 

 

やっぱり、誌とか童謡を書いているだけでは、生活していけなかったんでしょうね。

なんだかんだ、父親に反発しながらも結局は、父親の家に住み、家賃、光熱費は無いのも同然だったのですから。

 

 

もし、生まれた家が一般家庭で、裕福ではなかったら誌など書いている余裕はなかったでしょう。

 

 

宮沢賢治という作家は、世に出てこなかったとおもいます。

 

 

 

 

 

あ!

そうそう、賢治さんには妹がいたのです!

 

その妹さんは、とても賢治さんになついていて、賢治さんの一番の理解者だったとか・・・

 

しかし24歳という若さで、病気でこの世をさってしまいました。

賢治さんは、妹が病気の間お世話をし、自宅療養中でも、自分から進んで看病していたそうです。

 

 

 

 

 誰にでも、優しい人だったのですね。

 

 

 

 

2、奇行に走ることもあったとか

 

友達と話をしている時、いきなり両手をあげ麦畑に突入していき、帰ってきた後、銀の海で泳いできた。と、言ってみたり。

 

教師時代、生徒と一緒に音楽を聴いてると、突然踊り出したのです。

しかもそれが、狂ったような踊り方だったのでみんなびっくりしちゃった。

 

そんなエピソードがあったりするのです。

 

 

危ないクスリやってんじゃね?

 

 

現代なら、そう思われていたかも知れません。

 

 

 

しかし、ただ奇行に走っているわけではないのかもしれません。

 

 

賢治さんて、擬音とかの音の表現が独特なんですよね。

 

 

天気が良いと、太陽の光がサンサンと降り注ぐとか、そういう表現の事なんですけど。

 

 

 

賢治さんの場合は、太陽の光をごうごうとか、風の音をヒューヒューとかじゃなくて、どっどど、どっどど、とかの表現なのです。

 

 結構、独特ですよね。

 

 

漫画でいうと、ジョジョの表現が近いのかも知れません。

ジョジョの作者も天才ですからね。

 

 

 

私が思うに、奇行に走るときって、何か自然に対して誌のヒントが出そうなときとかなのかなって思うんです。

 

だから、自分の自然に対しての表現の仕方が、周りの常識とかけ離れていても気にしない。

 

 

周りからは奇行に見えるけど、賢治さんにとっては、いたって普通に自然と対話してるみたいな。

 

 

 

 

 

あんまり難しく考えても、わからないからこの辺で!

 

 

 

3、後輩想いで、絶大なしんらいをえていた。

 

注文の多い料理店、ご存じでしょうか?

 

たしか小学校か中学校で、私も習った記憶があります。

 

 

その童話の本を出版するときの話が、いい話なんです。

 

 

 

本を出版したのは、盛岡にある光源社というところ。

 

2人の賢治さんの後輩がやっていた会社です。

 

 

その後輩2人は、自分たちで会社を立ち上げ、割と順調にいっていたのです。

 

 

そしてあるとき、そのうちの一人近森さんが、賢治さんに教科書の販売のお願いをしようとして、花巻まで行ったのです。

 

賢治さんは、教師でもありましたからね。

 

 

 

 

そしたら逆に賢治さんに

 

 

いや、そんなことより俺の書いた童話を出版してくれ!

 

と、いきなりお願いされてしまったのです。

 

 

 

普通だったら

 

 

え!?ってなりますよね。

 

 

 

でも、近森さんは急いで盛岡へ帰ってきて、もう一人の後輩及川さんに相談するのです。

 

 

 

そしたら及川さん

 

 

お世話になった、賢治先輩の頼みや!

 

 

ひきうけたるで!!!

 

 

と、なーーーんも考えずに即決したのです。

 

 

近森さんもオッケー、オッケーとなり、じゃあやるべ!!

 

 

 

いざ出版してみっか!と作業にとりかかったのです。

 

 

 

でも、どのくらい売れるのかは、実際3人ともわかりません。

 

 

 

ですが、3人ともやる気満々だったので、予算オーバーでもいいから豪華なのつくろうぜ!と、1000冊もつくってしまったのです!

 

 

 

 

 

その後・・・

 

 

 

 

まっっったく売れませんでした。

 

 

1000冊ある内、300冊は悪いからと賢治さんが、自分で買い取ったそう。

 

 

 

まぁ、今でこそ有名ですが、当時は大変だったのですね・・・

 

 

 

 

 

 

しかし大事なのは、本が売れなかったことではありません。

 

 

 

 

 

 

 

賢治さんが自分の童話という夢を、2人の後輩に託してみたのです!

 

 

 

そしてその後輩2人は、託された夢を自分の夢のように、叶えようとしたのです!!

 

 

 

何の迷いも無く信用してもらえた、賢治さんの人望も素晴らしいですが、近森さんと及川さんの男気もまた素晴らしい・・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

漢が漢に夢を託す・・・・

 

 

 

 

 

 

そういうことなんです。

 

 

 

 

 

ちなみにこの後輩2人、ものすごく頭もよくて、数字にもめちゃくちゃ強い人でした。

それが勢いで、出版するなんて・・・

 

 

 

 

 

損得じゃあぁぁ、ないんです!!

 

 

 

 

 

格好いいってこういうことでしょ。

 

 

 

 

 

ONE PIECEで、ゾロが雪走という刀を、もらうとこに似ている気がします。

 

 

 

 

 

 

 

 注文の多い料理店の裏では 

3人の漢たちの熱い物語があったのです・・・

 

 

 

 

おわりに

いかがでしたでしょうか?

少しでも宮沢賢治さんという人物の良さが、伝わればなと思います。

 

私自身記事にしてみて、何かに一生懸命になるって素晴らしいなと、そういう気持ちになりました。

 

 

 

では、みなさま最後まで見て頂いて、ありがとうございました。